■日本は元寇の前には使者を殺してはいない(元寇&鎌倉武士のデマや誤解について)

※この記事は、過去にニコニコとYouTubeで投稿したゆっくり動画を手直ししたものです。
※使者は引き返した使者もカウントしています。
※5chのコピペはIDが自動で青色表示されていることがありますが、リンクページはありません。

 

・日本が元寇の前に元の使者を殺した
・その使者殺害がクビライを怒らせ文永の役で日本が攻め込まれる原因になった
・日本は使者が来るたびに毎回殺していた

元寇や鎌倉武士についての誤解の中でも、上記のような使者についてのものは特によく見かけます。
ネット上で見かけることが多くなっていますし、時には本などネット以外で見かけることもあります。

しかし史料をみていくと、元寇の前には元と仲介した高麗からは6回の使者が日本に送られてはいますが、その6回とも殺されてはいません。

元寇の前に送られた6回の使者は主に元史や高麗史にかなりの記述があり、帰ったことやその後に何してたのかまでも書かれています。

 

・1回目の使者・黒的

【三年八月、命兵部侍郎黑的、給虎符、充國信使、禮部侍郎殷弘給金符、充國信副使、持國書使日本】(元史、巻二〇八、至元三年)
 
まず1266年(至元3年、文永3年)8月にクビライに任命された1回目と、後の3回目の使者はともに黒的という人物です。

 

【黑的等道由高麗、高麗國王王禃以帝命遣其樞密院副使宋君斐、借禮部侍郎金贊等導詔使黑的等往日本、不至而還】(元史、巻二〇八、至元三年)

 

しかし1回目の時の黒的は翌年の1267年(至元4年、文永4年)に日本に行く途中、高麗で風浪の険しさなどから引き返してしまったため、日本に来てもいません。

 

・2回目の使者・潘阜

【今年 文永五 正月、蒙古、高麗牒状到来、高麗牒状使潘阜、】(鎌倉年代記 裏書、文永五年)

【禃以為海道險阻、不可辱天使、九月、遣其起居舍人潘阜等持書往日本、留六月、亦不得其要領而歸】(元史、巻二〇八、至元五年)

【秋七月丁卯、起居舍人潘阜、還自日本】(高麗史、巻二十六、元宗九年)

 

再度クビライに命じられて高麗に来た黒的に、当時の高麗王・元宗は海路が険しいならと自分の部下の潘阜という人物を日本に送り、潘阜は1268年(文永5年、至元5年、元宗9年)の正月に九州に到着しました。
これが2回目の使者で、「日本に来た使者」としては1回目の使者になり、はじめてクビライの国書(「大蒙古国皇帝奉書」または「蒙古國牒状」)を日本に届けた人物でもあります。

「大蒙古国皇帝奉書」は丁寧か脅迫的だったかなど内容が話題になることも多く、続いてそれを持ってきた使者が殺されたかのように誤解されることもありますが、潘阜は上記の元史、高麗史には帰ったと書かれています。

 

【冬十月乙巳、都督使金方慶將中軍、朴之亮金忻知兵馬事、任愷爲副使、金侁爲左軍使、韋得儒知兵馬事、孫世貞爲副使、金文庇爲右軍使、羅裕朴保知兵馬事、潘阜爲副使、號三翼軍】(高麗史、巻二十八、忠烈王零年)

 

そして高麗史にある1回目の元寇、1274年(文永11年、至元11年、忠烈王零年)の文永の役に出兵した高麗軍の中にも軍使(副使)として潘阜の名があるので、潘阜はそもそも文永の役前に死んではいないということになります。

 

【丙辰、遣左司議潘阜、勞忻都、茶丘、范文虎。庚申、王與公主、至自慶尙道。是月、忻都、茶丘、范文虎等、還元。官軍不返者、無慮十萬有幾。】(高麗史 巻二十九、忠烈王七年)

 

さらに2回目の元寇、1281年(弘安4年、至元18年、忠烈王7年)の弘安の役の後には、潘阜は敗けて帰って来た忻都、洪茶丘、范文虎らの弘安の役に出征した将軍たちの慰労に遣わされており、弘安の役後にも高麗で生存していることにもなります。

 

・3回目の使者・黒的

【五年九月、命黑的、弘復持書往、至對馬島、日本人拒而不納、執其塔二郎、彌二郎二人而還】(元史、巻二〇八、至元五年)

【甲寅、元遣黑的來、爲達魯花赤】(高麗史、巻二十八、忠烈王零年)

【甲午、達魯花赤黑的還、元宗之復位也、黑的奉詔而來、性譎詐難信。】(高麗史、巻二十八、忠烈王元年)

 

1268年(文永5年、至元5年)年に黒的は今度は自分で日本に行こうとしましたが、対馬で拒否されて入れずに、また引き返しました。
その後は(文永11年、至元11年、忠烈王零年)10月の文永の役の2ヶ月後の12月に、達魯花赤(ダルガチ)という元が高麗に置いた行政長官になり、翌年の1275年(文永12年、至元12年、忠烈王元年)7月に帰国しているので、黒的も文永の役前に死んではいない、ということになります。

 

・4回目の使者・金有成

【今年 文永六 九月、蒙古、高麗牒状重到来、牒状使金有成、高柔二人也、】(鎌倉年代記 裏書、文永六年)

【六年六月、命高麗金有成送還執者、俾中書省牒其國、亦不報、有成留其太宰府守護所者久之】(元史、巻二〇八、至元六年)

【冬十月庚寅、以太僕尹金有成、爲護送日本人、供驛署令郭鱗、爲書状官】(高麗史、巻三十、忠烈王十八年)

【今年 正応五 正朔蝕正現、七月、附商舶帰朝、大元燕公南献牒状、十月、高麗使全(金)有成等到着、翌年被召下関東訖、】(鎌倉年代記裏書、正応五年)

 

4回目の使者は1269年(文永6年、至元6年)に来日した金有成という高麗人で、元史には大宰府に長期滞在したとあり、帰国については1270年(文永7年、至元7年)2月に帰国と書いてる本もありましたが、その根拠まではわかりませんでした。
ただ金有成は1281年(弘安4年、至元18年、忠烈王18年)の弘安の役後にも、1292年(正応5年、至元29年)に12回目の使者として再来日しているので、やはり文永の役後はもちろん、弘安の役後まで生存していることになります。

 

・5回目の使者・趙良弼

【今年 文永八 十月、蒙古牒状重到来、使趙良弼、前々依無返牒、今度牒者良弼直可伝大将軍、出案文、不献正文、十二月、良弼渡使者張鐸於本国、翌年五月、張鐸帰来、高麗牒状又持来、】(鎌倉年代記 裏書、文永八年) 

【十二月、又命祕書監趙良弼往使】(元史、巻二〇八、至元六年)

 

1269年(文永6年、至元6年)12月、今度は趙良弼という女真人が5回目の使者に任命されました。

 

【九月、高麗王禃遣其通事別將徐偁導送良弼使日本、日本始遣彌四郎者入朝、帝宴勞遣之】(元史、巻二〇八、至元八年)

【良弼乃遣鐸同其使二十六人至京師求見】(元史、巻二〇八、至元九年)

 

五回目の使者・趙良弼が1271年(文永8年、至元8年)9月に来日すると、今度は大宰府は弥四郎という人物ら26人(12人とも)の使者を趙良弼の帰国に同行させて元に送りました。

 

【蒙古人可襲来之由、有其聞之間、所差遣御家人等於鎮西也。】(鎌倉遺文 古文書編 14巻、10873号、文永8年)

【誠如聖筭、彼懼我加兵、故發此輩伺吾強弱耳、宜示之寬仁、且不宜聽其入見】(元史、巻二〇八、至元九年)

 

元の方は日本が使者を送った目的を偵察だと判断して、使者のクビライへの謁見も臣下に反対されて行いませんでした。
この使者については史料が少なく不明確な点が多いのですが、1271年(文永8年、至元8年)9月に執権の北条時宗連署で前執権の北条政村から、蒙古人の襲来へ備えるために、小代重俊など関東の御家人に鎮西へ行くようにという命令が出ているので、幕府の命令があったとしても、元の想像通り偵察目的だったのでしょう。
一方元の使者の方も日本を偵察するのも目的だったらしく、この趙良弼も一年の滞在の間、日本を偵察して帰国しました。
ただし、潘阜や金有成の頃から日本は使者を九州に滞在させていたので、趙良弼もその先の偵察はできなかったようです。

 

・6回目の使者・趙良弼

【十年六月、趙良弼復使日本、至太宰府而還】(元史、巻二〇八、至元十年)

【二十三年、卒、年七十、贈推忠翊運功臣、太保、儀同三司、追封韓國公、諡文正、子訓、陝西平章政事】(元史、巻一五九、趙良弼伝)

 

その2年後の1273年(文永12年、至元12年)6月、再び趙良弼は日本への使者として送られ、やはり太宰府までしか行けず帰国しています。
そして1274年(文永11年、至元11年)10月、1回目の元寇文永の役が起きているので、『元寇の前の使者』としてはこの趙良弼が最後になります。
趙良弼は帰国後のことも元史の伝に記されており、亡くなったのは弘安の役後の1286年(弘安9年、至元23年)と、やはり文永の役後はもちろん、弘安の役後まで生存していることになります。

 

【是月、高麗王禃致書日本、五月、又以書往、令必通好大朝、皆不報】(元史、巻二〇八、至元九年)

【今年 文永八 十月、蒙古牒状重到来、使趙良弼、前々依無返牒、今度牒者良弼直伝大将軍、出案文、不献正文、十二月、良弼渡使者張鐸於本国、翌年五月、張鐸帰来、高麗牒状又持来、】(鎌倉年代記 裏書、文永八年)

【十七年正月、詔以他令不罕守建都、布吉䚟守長河西之地、無令遷易。三月、同知浙東道宣慰司事張鐸言】(元史、巻九十九、至元十七年)

【クビライ・カアンと後嵯峨院政の外交交渉 秦野裕介
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/hatano.pdf
文永の役の前の黒的から弘安の役後の一山一寧まで13回の使者が載っているが、1272年2月のものと5月の張鐸は含まれていない)

 

ただこの他にも、元史に「1272年(文永9年、至元9年)2月と5月に高麗王が日本に書状を送り、元との通好を勧めたが返書はなかった」ともありますが、どちらも使者の名前は見当たりません。

鎌倉年代記には、趙良弼に同行して来日した張鐸という書状官が、1271年(文永8年、至元8年)12月にいったん帰国し、翌年の1272年5月に再来日した時に高麗の書状を持って来たとあるので、この2回のうち5月の書状の方を届けたのはこの張鐸のようです。
この張鐸は1280年(弘安3年、至元17年)に浙東道の宣慰司になってるので、やはり帰国して文永の役後も生存していることになります。
張鐸は趙良弼に同行した書状官なので、おそらく趙良弼が6回目に再来日して帰った時に張鐸も一緒に帰ったのでしょう。
2月の方は詳細が見当たりませんが、もしかしたら張鐸と同じように趙良弼一行の誰かだったのかもしれません。

またこの1272年2月と5月のものは、潘阜や金有成と違ってクビライではなく高麗王の国書を渡したのみだからか、張鐸は趙良弼の書状官だったから趙良弼一行のひとりとしてまとめて扱われてるのか、使者の詳細を扱った本などでも元やクビライの使者としてはカウントはされてないようです。

それに殺された記録もなく、名前すらわからないような使者が殺されたというのも無理があり、また同時期に日本と高麗を行き来している趙良弼や張鐸は生きて帰っています。
なので1272年2月と5月の高麗からのものについては、この先の検証でも基本的に除くことにします。

 

これで元寇の前の6回の使者は、1回目と3回目の黒的、2回目の潘阜、4回目の金有成、5回目と6回目の趙良弼と、使者を務めた人物は文永の役の後まで生存しており、また高麗と対馬で引き返した黒的以外の潘阜、金有成、趙良弼は、弘安の役後まで生きているので、そもそも元寇の前には死んでもいないということになります。

また、よく見かける「使者を殺害したことがクビライを怒らせて文永の役で日本が攻め込まれる原因になった」というのも、文永の役で攻め込まれるまでの使者が殺されてないから成立しません。
2回目の元寇弘安の役の方なら使者殺害の後になるのですが(それも使者を殺さなくても攻めてきた前例が文永の役なのですが)、どうも近年のネット上の書き込みをみると、文永の役についてそう誤解されることが増えているようです。

 

・7回目の使者・杜世忠、8回目の使者・周福

【十二年二月、遣禮部侍郎杜世忠、兵部侍郎何文著、計議官撒都魯丁往。使復致書、亦不報。】(元史、巻二〇八、至元十二年)

【今年 建治元 四月十五日、大元使着長門国室津浦、八月、件牒使五人被召下関東、九月七日、於滝口刎首、一、中須大夫礼部侍郎杜世忠、年卅四、大元人、作詩云、出門妻子贈寒衣、問我西行幾日帰、来時儻佩黄金印、莫見蘇秦不下機、】(鎌倉年代記裏書、建治元年)

【今年 弘安二 六月廿五日、大元将軍夏貴、范文虎、使周福、欒忠相具渡宋僧本暁房霊杲、通事陳光等着岸、牒状之旨如前々、於博多斬首、】(鎌倉年代記裏書、弘安二年)

【今年 正応五 正朔蝕正現、七月、附商舶帰朝、大元燕公南献牒状、十月、高麗使全(金)有成等到着、翌年被召下関東訖】(鎌倉年代記裏書、正応五年)

【後日本僧鉗公來言、有成丁未七月五日病卒】(高麗史、巻一百六)

【三年、遣僧寧一山者、加妙慈弘濟大師、附商舶往使日本、而日本人竟不至】(元史、巻二〇八、大徳三年)

【十月八日、宋朝僧正子曇一寧参着鎌倉、一寧持大元国書、】(鎌倉年代記裏書、正安元年)

【今年 正安二 三月八日、院御所常盤井殿焼失、十一月廿九日、建長寺供養、導師当寺長老寧一山、十二月五日、興福寺供養、】(鎌倉年代記裏書、正安二年)

 

また、たまに来る使者の全てを殺していたり、2回以上殺していたかのような誤解も見かけますが、殺された使者は1275年(文永12年、建治元年)の7回目の使者の杜世忠と、1279年(弘安2年、至元16年)の8回目の使者の周福の2回です。

文永の役の前の使者は生きて帰っていますし、文永の役弘安の役の間の使者はこの2回で、弘安の役後の使者は日本に来ていないものが多く、来日したのは1292年(正応5年、至元29年)の12回目の使者・金有成と、1299年(正安元年、大徳3年)の13回目の一山一寧ですが、その2回も帰国はできませんでしたが殺されはせず、金有成は1307年に病気で亡くなり、一山一寧は建長寺などの住職に迎えられています。

後に取り上げる予定ですが、おそらく5chのなんでも実況板のスレッドの「元寇時の鎌倉武士打線(最新の研究)」が出典の「元寇の後に来た使者を話を聞かず6回殺してる」というのも、元寇後に殺された使者の回数はおろか、来日した回数を上回っていることになり、そこから矛盾しまいてしまいます。

 

・原因は時期の混同?

この誤解は単に使者を殺した年や回数の誤解に留まらず、「それが元寇文永の役)の原因になった」、「日本を攻める気のなかったクビライを、使者を殺したことで激怒させて攻め込まれた」、「日本が使者を殺さななければ元寇は起きなかった」、「モンゴルは平和的に通好や通商を申し込んだ、または朝貢や従属を要求したとしても使者を送っただけだったのに日本はその使者を殺した」と誤解の上にさらに様々な誤解が広がることにもなっています。

 

日刊ゲンダイDIGITAL ペスト大流行を生んだ巨大モンゴル帝国 盛衰のカギは銀だった
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/292206

 

掲示板やTwitterの書き込みだけではなく、最近では日刊ゲンダイDIGITALの記事にまで混同したものがあり、鎌倉幕府の執権・北条時宗がモンゴルからの使者を切り捨ててしまったことが文永の役を引き起こしたと書かれていたり、色んな方面へ広がってしまっているようです。

またこの誤解をネットで見かけることも、近年は漫画やゲームで元寇を扱ったものがヒットしたことや、元寇の時代ではないですが鎌倉時代末期を舞台にした漫画がジャンプで連載されたり次の大河が平安末から鎌倉前期を舞台になることで鎌倉時代への関心が深まったためもあるのでしょうが、年々増えているように感じられます。

 

では、どうしてこのような誤解が、こんなにも人口に膾炙することになったのでしょうか?

 

上記の通り文永の役の後、弘安の役の前にあたる1275年(文永12年、建治元年)には7回目の使者の杜世忠が、1279年(弘安2年、至元16年)には8回目の使者の周福と使者が2回が殺されていることを、他の時期や回数を混同したのかもしれません。
元寇の前後含めて殺された使者はいない』ではなく『殺された使者もいるけど文永の役後の7回目と8回目の使者の2回』になので、使者が殺された事実そのものはあって時期や回数が違う、全くの虚偽よりも信じられやすい『事実に虚偽が混ざった』状態になってしまったためもあるのでしょう。

この混同はネット上だけのものではなく、時折本に載っていることもあり、ネットがない時代の本にもあったので、昔から混同されることがあったようです。

なにしろ元寇は2回あり、その前にも間にも後にも使者が来て、回数は来なかったのも含めたら13回、元寇の前だけでも6回となるとややこしく、混同するのも無理はなかったのでしょう。

 

82 :風吹けば名無し@\(^o^)/:2015/11/05(木) 08:27:07.70 id:gjtpO4WGp.net
    フビカス「仲良くしようや(ゲス顔)高麗みたいにはりたないやろ?」
    朝廷「なんや蒙古国って知らんわポイーで」
    幕府「せやせや」
    フビカス「もう一回言うで仲良くしようや。チャンスはもうないで。」
    朝廷「これ…もしや返事しないとヤバない?」
    幕府「無視やで。次から朝廷通さんで無視やで」

    これを後三回ぐらい繰り返して使者殺したら襲ってきたンゴオオオオオオ

 

【悲報】 鎌倉武士団、モンゴルより鬼畜だった
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1446678069/

 

またネット上の書き込みは、最初は単なる5chなどの掲示板の書き込みであっても、他のスレに何度もコピペされたり、スレが立てられたり、まとめサイトにスレがまとめられたり、2ch外のサイトにも引用されることで拡散していくことがあります。
一見分かりやすくまとめられているものや、~で打線組んだなど5chのネタに当て嵌めたものほどなりやすいようで、そうしたものにも混同したものがあったのもここまで広まった一因だったのかもしれません。

上の書き込みも最初に書き込まれたスレ以外のスレにも、また5ch外のサイトにもコピペされていましたが、引き返した黒的を除くと1行目が潘阜、4行目が金有成にあたり、そこから3回というと趙良弼2回の後の次の、文永の役の後の杜世忠にあたります。
杜世忠は「殺された使者」ではありますが、文永の役はその前に起きているので「使者殺したら襲ってきた」ではありません。

 

元寇や鎌倉武士についての多数の誤解の元になっている「元寇時の鎌倉武士打線(最新の研究)」という打線についても、そのためかかなり広まっているのですが色々な矛盾があり、これについては後の記事で解説していく予定です。