■「最新の研究」を装った打線…しかし提示されたソースの本に打線の内容は存在しない(元寇&鎌倉武士のデマや誤解について)

 

※この記事は、過去にニコニコとYouTubeで投稿したゆっくり動画を手直ししたものです。
※使者は引き返した使者もカウントしています。
※5chのコピペはIDが自動で青色表示されていることがありますが、リンクページはありません。

 

tademushi66.hatenablog.com

前回、「日本が元寇の前に使者を殺した」という誤解が広まってしまったのは存在するものに虚偽が混ざるから信じられやすかったのではないかと書きましたが、似たようなものに『元寇時の鎌倉武士打線(最新の研究)』という打線があります。

下のスレッドは5ちゃんねるのなんでも実況(ジュピター)、通称『なんJ』に立てられたものです。
『打線』とは野球の打線にあてはめて色んなものをランク付けする遊びのようなもので、歴史に関する打線でも真偽不明のネタが混ざっていることは珍しくないのですが、他のスレにもよく貼られたり、まとめサイトなどで5ch外に転載されたり、出典がどこからない形で引用されたりするためか、最近は打線から発したネタがあまりにも広まりすぎたり、本当にそういう話があるかのように受け取られているふしがあるように感じられます。


【朗報】元寇の鎌倉武士、言うほどキチガイではなかった 
https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1537524529/

1 :風吹けば名無し:2018/09/21(金) 19:08:49.75 ID:3HbREZZQ0.net
元寇時の鎌倉武士打線(最新の研究)

1(遊)モンゴル襲来の6年前に大陸にヤベーのがいるのを察知して情報収集してた
2(三)壱岐対馬は見殺しにしたのは敵情を研究したのではなく単に対馬守護少弐氏への嫌がらせ
3(一)最初の蒙古襲来で人質を盾にしてたモンゴル軍に人質無視して射殺してた
4(指)博多を略奪したのではなく物資と人員と銅銭を徴発してただけ(太宰府天満宮に「徴発やめてよー」という願文と請願が残ってる)
5(右)蒙古襲来4年前に非御家人の動員の権限を幕府が接収、北九州に西国の武士を集中させてた
6(左)使者をぶっ殺した時に書状を見ずに殺したために三度目の使者の書状が和睦(休戦)の使者なのを知らなかった
7(中)二度目の南路軍来るのを半年前に察知して海賊が襲いまくって南路軍が博多に来たときはボッロボロだった
8(二)鷹島掃討戦で高麗人、モンゴル人は皆殺しにしたけど女と宋人は助命してそのまんま戦利品として6千人ほど御家人で山分けしてた
9(捕)実は元寇の後にに来た高麗と元の和平の使者を話を聞かず6回ほど博多で殺してる


『最新の研究』とついてはいますが、これはあくまで『スレを立てた人が最新の研究と付けただけ』です。
なんJは歴史の話題でもソースがないことが多いのですが、この場合はもっと不味く、上のスレ主(スレを立てた人)ID:3HbREZZQ0は細川重男氏の『北条氏と鎌倉幕府』という実在する本を繰り返しソースに出してはいますが、『北条氏と鎌倉幕府』にはその殆どが見当たりません。


9 :風吹けば名無し:2018/09/21(金) 19:10:51.40 ID:3HbREZZQ0.net
出展は細川重男の北条氏と鎌倉幕府やで 

23 :風吹けば名無し:2018/09/21(金) 19:13:05.59 ID:hu/hVjKRd.net
    このコピペ割とウソやぞ 

29 :風吹けば名無し:2018/09/21(金) 19:13:35.89 ID:3HbREZZQ0.net
>>23
出展は細川重男さんの北条氏と鎌倉幕府や 

85 :風吹けば名無し:2018/09/21(金) 19:19:27.33 ID:3HbREZZQ0.net
>>67
細川重男の北条氏と鎌倉幕府より抜粋やで

曰く「使者を殺してるけど三回目からは普通に休戦と貿易の使者。これを書状も見ずに普通に殺すのはさすがに無茶苦茶」  

148 :風吹けば名無し:2018/09/21(金) 19:25:33.44 id:clI/R6hLa.net
>>1
なおソースなし
単なる妄想の模様 

159 :風吹けば名無し:2018/09/21(金) 19:26:18.31 ID:3HbREZZQ0.net
>>148
細川重男の北条氏と鎌倉幕府やで
1400円や 


ソースとして実在する学者の本を出してしまっては、単にソースがないよりも信じられやすく、また『北条氏と鎌倉幕府』を未読の人には、こんなことが実際にこの本に書かれている、この学者の説だと信じてしまうおそれもあります。

 

・「1(遊)モンゴル襲来の6年前に大陸にヤベーのがいるのを察知して情報収集してた」

【蒙古国事、蒙古人挿凶心、可伺本朝之由、近日所進牒使也、早可用心之旨、可被相触讃岐国御家人等状、依仰執達如件、文永五年二月廿七日 相模守(北条時宗) 左京権大夫(北条政村) 駿河守(北条有時)殿】(鎌倉遺文 古文書編 13巻、9883号、文永五年)

 

1回目の元寇文永の役は1274年(文永11年、至元11年)、その6年前の1268年(文永5年、至元5年)は、丁度2回目に送られた使者で日本に来た使者としては1回目にあたる潘阜が、クビライの国書を日本に届けた年にあたります。

その国書到来の後に北条時宗は「蒙古人が凶心を挟んで本朝を伺っている」と使者と国書が来たことも御家人に伝え用心を呼びかけているので、一応「北条時宗元寇の6年前からモンゴルをヤベーと判断して警戒してた」とは言えます。

『北条氏と鎌倉幕府』の第四章でも、この元寇の6年前の潘阜による国書到来についての記述に、鎌倉幕府はそれを強敵襲来の予兆と認識しただろうことや、この年の2月には西国の守護に侵攻への備えを命じていることも言及されているので、前半の『大陸にヤベーのがいるのを察知して』というのはこれのことかもしれません。

この本で言及されているこの時期の対蒙古防衛対策は、それが関係したとみている北条時宗の異母兄の北条時輔と親戚の名越時章らが殺された二月騒動と、異国警固番役などの軍事面についてのものが主なので、後半の情報収集については見当たりません。
そもそもこの本は元寇についても書いてはありますが、タイトルでわかるようにそれがメインというわけではないので、そこまで元寇関連の詳細が書かれているわけではありません。

ただ前に解説したように、これより後のことですが5回目の使者の趙良弼の時に、大宰府からの使者が同行して元に渡り、元からは偵察が目的と疑われたりしているので、そのことを指しているのかもしれません。

使者の潘阜とクビライの国書が日本に来たのが、まさにその年なのを知らないとちょっと誤解を招きそうな書き方ではありますが……。

 

・「3(一)最初の蒙古襲来で人質を盾にしてたモンゴル軍に人質無視して射殺してた」

【百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是】(鎌倉遺文 古文書編 第16巻 11896号、建治元年)


1 :風吹けば名無し@転載禁止:2015/11/05(木) 08:01:09.83 ID:9V5u6vqf0
    元寇の鎌倉武士団打線(最新の研究)

    1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた
    2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた
    3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた
    4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた
    5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が)
    6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた
    7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた
    8(捕) 2度目の時は夜襲しまくって眠らせなかっただけじゃなく相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れてた
    9(投) 元軍が壊滅した後、取り残された元軍の内、宋人は助命したが高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆殺しにしてた 

【悲報】鎌倉武士団、モンゴルより鬼畜だった
https://orpheus.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1446678069

 

「人質を盾にしてたモンゴル軍」という前半部分は、おそらく1275年(建治元年)4月の日蓮の書状の、その前年の文永の役についての記述にある対馬壱岐で生け捕りにされた人々が「手を通して船に結付られた」という話からきているのでしょう。
しかしここにはその人々がどうなったかにはついては「一人も助かる者なし」とあるのみで、「日本側や武士が人質無視して射殺してた」などということは書いていません。

元寇で鎌倉武士が人質を攻撃した」、また「その後武士も真似して人質を楯にして攻撃するようになった」という話は、どうも近年ネット上では鎌倉武士のイメージとしてかなり広まってしまっているようなのですが、2015年の立てられたこれより古い方の「元寇の鎌倉武士団打線(最新の研究)」によって唐突に発生したもののようで、上の「モンゴル軍が人質を盾にしてた」ともとれる話に、そのスレのスレ主が後半を付け加えたものだったのでしょう。

なお、この書状は全体をみると、実際の文永の役の戦況とは違いがあったりするのですが、ここでは「人質を盾にしてたモンゴル軍」という話のもとになったものに、「打線と同じことが書いてるかどうか」という点だけを検証しておきます。

そして『北条氏と鎌倉幕府』には書いていませんし、そもそも元寇の際の人質について言及した部分はありません。

 

・「5(右)蒙古襲来4年前に非御家人の動員の権限を幕府が接収、北九州に西国の武士を集中させてた」

【蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)所注申也、早来廿日以前下向安芸、彼凶徒寄来者、相催国中地頭御家人并本所領家一円地之住人等、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、文永十一年十一月一日 武蔵守(北条長時)在判 相模守(北条時宗)在判 武田五郎次郎(信時)殿】
(鎌倉遺文、古文書編、15巻、11741号、文永十一年)

【鎮西管領之時被成之、蒙古人襲来対馬壱岐、致合戦之間、所被差遣軍兵也、且九国住人等、其身縦雖不御家人、有致軍功之輩者、可被抽賞之由、普可令告知之状、依仰執達如件、文永十一年十一月一日 武蔵守(北条長時)在判 相模守(北条時宗)在判 武田五郎次郎殿】(鎌倉遺文、古文書編、15巻、11742号、文永十一年)

 

これはおそらく『北条氏と鎌倉幕府』の第四章にもある、幕府が非御家人(本所一円地住人)の軍事動員を命じたことについてでしょう。
この命令は安芸(広島県)の守護だった武田信時に出ているので、「西国の武士」相手のものでもあります。
ただしこれは1274年(文永11年、至元11年)の文永の役の直後のことで、『北条氏と鎌倉幕府』でも文永十一年の文永の役の後の十一月一日、対馬壱岐への蒙古襲来の報を受けてのものなのが説明されていますし、上記の命令の日付もやはり文永十一年十一月一日となっていますから、打線の『蒙古襲来4年前に』の部分は『北条氏と鎌倉幕府』の記述とも、命令の日付とも違います。
これも、史料や本にあるものに、違うことを混ぜています。
単に元寇の時に鎌倉幕府がどうしたかの打線だったらそのまま書けばいいのに、わざわざ文永の役後を文永の役前に改竄する意味がわかりませんが…。

 

・「6(左)使者をぶっ殺した時に書状を見ずに殺したために三度目の使者の書状が和睦(休戦)の使者なのを知らなかった」

「三度目の使者」というのが何から数えて三度目なのかが書かれてないので誰のことを指しているのかわかりにくいのですが、元寇の前から数えての使者だとすると、前の記事で説明したように元寇の前の「殺されてない」使者になります。

 

■日本は元寇の前には使者を殺してはいない(元寇&鎌倉武士のデマや誤解について)
https://tademushi66.hatenablog.com/entry/2021/09/22/102936

 

【五年九月、命黑的、弘復持書往、至對馬島、日本人拒而不納、執其塔二郎、彌二郎二人而還】(元史、巻二〇八、至元五年)

【甲寅、元遣黑的來、爲達魯花赤】(高麗史、巻二十八、忠烈王零年)

【甲午、達魯花赤黑的還、元宗之復位也、黑的奉詔而來、性譎詐難信。】(高麗史、巻二十八、忠烈王元年)

 

引き返したものを含めれば一回目・黒的、二回目・潘阜、三回目・黒的。
しかし黒的は三回目の時には対馬で引き返しており、また文永の役後も高麗で達魯花赤をしているのでそもそも日本への使者だった時に死んでいません。

 

【今年 文永八 十月、蒙古牒状重到来、使趙良弼、前々依無返牒、今度牒者良弼直可伝大将軍、出案文、不献正文、十二月、良弼渡使者張鐸於本国、翌年五月、張鐸帰来、高麗牒状又持来、】(鎌倉年代記 裏書、文永八年) 

【十二月、又命祕書監趙良弼往使】(元史、巻二〇八、至元六年)

【十年六月、趙良弼復使日本、至太宰府而還】(元史、巻二〇八、至元十年)

【二十三年、卒、年七十、贈推忠翊運功臣、太保、儀同三司、追封韓國公、諡文正、子訓、陝西平章政事】(元史、巻一五九)

 

引き返したものを除けば一回目・潘阜、二回目・金有成、三回目・趙良弼。
趙良弼は大宰府に行った後に使者を連れ帰り、再来日した時も太宰府まで行って帰国していますし、弘安の役後の1286年(弘安9年、至元23年)に亡くなっているので、やはり日本への使者だった時に死んでいません。

ですから元寇の前から数えての使者だとすると帰っているし、帰った後も生きているし、まだ文永の役も起きてないのに、「休戦」というのも意味が分かりません。

「三度目に殺した使者」という意味だとしても、殺された使者は1275年(文永12年、建治元年)の7回目の使者の杜世忠と1279年(弘安2年、至元16年)の8回目の使者の周福の2回なので、該当する人物は見当たりません。

『北条氏と鎌倉幕府』にもありませんし、上に書いたようにこの本は元寇や日元関係メインの本ではなく、使者については潘阜、杜世忠、周福のことしか書かれていません。

 

・「7(中)二度目の南路軍来るのを半年前に察知して海賊が襲いまくって南路軍が博多に来たときはボッロボロだった」

時宗遣使于大元、招禅僧有名者、明州太守以祖元充之】(鎌倉大日記、弘安二年)

【今年 弘安二 六月廿五日、大元将軍夏貴、范文虎、使周福、欒忠相具渡宋僧本暁房霊杲、通事陳光等着岸、牒状之旨如前々、於博多斬首、】(鎌倉年代記裏書、弘安二年)

【廿五日 晴、参殿下、次謁信輔、宋朝牒狀自關東去夕到來、今日於仙洞有評定、殿下已下皆参、左大辮宰相束帯、讀申牒狀云々、如傳聞者、宋朝為蒙古已被打取、日本是危、自宋朝被告知之趣歟、今日人々議不一揆云々、】(勘仲記、弘安二年)

【今日異國牒狀内々有御評定、書狀之體違先例、無禮也、亡宋舊臣直奉日本帝王之條、誠過分歟、但落居分、關東定計申歟、】(勘仲記、弘安二年)

【鎮西警固事、蒙古異賊等、明年四月中可襲来云々、早向役所、厳密可致用心、近年守護御家人、或依所務之相論、或就検断之沙汰、多以不和之間、無用心儀之由、有其聞挿自身之宿意、不顧天下大難之条、甚不忠也、御家人已下軍兵等者、随守護命、可致防戦之忠、守護人亦不論親疎、注進忠否、可申行賞罰也、相互於背仰者、永可被処不忠之重科、以此旨可、相触国中之状、依仰執達如件 弘安三年(一二八○)十二月八日 相模守(北条時宗)在判  大友兵庫(頼泰) 頭入道殿
(『鎌倉遺文』第十九巻一四二〇七号)】

 

これについても『北条氏と鎌倉幕府』にはありません。
前半の「二度目の南路軍来るのを半年前に察知して」については、弘安の役(一二八一年)で東路軍(蒙漢軍と高麗軍)が高麗の合浦を出航する半年ほど前の十二月八日付けの書状で、北条時宗から大友頼泰への書状に来年四月中の蒙古襲来が予測されてることからからでしょうか。

ただ「南路軍」というのが旧南宋人中心で旧南宋の寧波から出航した江南軍だとすると、この書状には単に「蒙古異賊等」としており旧南宋軍のことは書いていません。

 

「二度目の元寇弘安の役では元が旧南宋人を日本攻めの軍に参加させて攻めて来るだろうと察知して」、ということなら、

文永の役には、その前に元に従属した高麗軍も加わっている
南宋は1281年(弘安4年、至元18年)の弘安の役の2年前、1279年(弘安2年、至元16年)の崖山の戦いで滅亡している
・同年北条時宗の招聘に応じて、崖山の戦いの後に旧南宋の明州(浙江省寧波市)から僧侶・無学祖元が来日、鎌倉の建長寺の住持に迎えられている
・同年、旧南宋の将軍でクビライに降った夏貴、范文虎から送られた、8回目の使者の周福が来日。博多で斬首されている
・同年、それについての公卿、広橋兼仲の日記に、宋が蒙古に滅ぼされたことへの言及がある

これらのことから、日本では1279年(弘安2年、至元16年)の南宋滅亡がその年のうちには、もう鎌倉や京にまで伝わっていたようです。
なにしろ南宋が滅亡したその直後に南宋人の無学祖元が来日して、しかも北条時宗の招聘に応じてのもので、時宗のいる鎌倉のお寺にいるので、時宗はそのあたりの情報も直接無学祖元から得ていたのかもしれません。
そして文永の役では高麗軍が日本攻めに加わっていたことを考えれば、元は支配した国の人間を次の戦争に使う、次は旧南宋軍が加わることは察知というか予測できる材料は揃っているので、どこまで日本が察知してたのかはっきりしたことまではわからりませんか、察知してもおかしくない状況にはありました。

後半の「海賊が襲いまくって南路軍が博多に来たときはボッロボロ」というのはわかりませんが、水軍のことだとすると、網野善彦氏の「蒙古襲来」には、弘安の役で東路軍に船で海を渡って攻撃を仕掛けた武士もいたことと、その中に肥前松浦党などがいたという記述があり、江南軍を事前に襲ってたかはともかく、松浦党など水軍の参戦はありました。

 

松浦党ハ数百人打レ、或ハ生取ニセラレシカハ、寄タリケル浦々ノ百姓共、壱岐対馬ノ如シ、】(鎌倉遺文 古文書編 第16巻 11896号、建治元年)

 

なお一回目の蒙古襲来・文永の役でも松浦党は戦い、大きな被害を受けているようです。

 

・「8(二)鷹島掃討戦で高麗人、モンゴル人は皆殺しにしたけど女と宋人は助命してそのまんま戦利品として6千人ほど御家人で山分けしてた」

【方伐木作舟欲還、七日、日本人來戰、盡死、餘二三萬為其虜去。九日、至八角島、盡殺蒙古、高麗、漢人、謂新附軍為唐人、不殺而奴之】(元史、巻二〇八、至元十八年)

 

鷹島掃討戦で高麗人、モンゴル人は皆殺しにした」「宋人は助命した」という前半は、おそらく元史からのものでしょう。
鷹島掃討戦でというかその捕虜の二、三万人についてで、宋人というか南宋人ですね。
処遇に関しては「奴」にしたとあるけど、6千人や御家人に山分けといったその詳しい人数や行く末まではここでは書かれてないし、女についてもここには見当たりません。

 

【条々一 賊船事、雖令退散、任自由不可有上洛遠行、若有殊急用者、申子細、可彼随左右矣、一 異国降人等事各令預置給分、沙汰未断之間、津泊往来船、不謂書夜不論大小、毎度加検見、輙浮海上、不可出国、云海人漁船、云陸地分、同可有其用意矣    、】(『鎌倉遺文』第十九巻一四四五六号)

 

弘安の役直後の野上氏への書状には、降人を各武士に預け置いているとありますが、これにも沙汰は未断とありますし、女についての記述も特に見当たりません。
「捕虜を御家人に分配した」とかいてある本はあるようなので、他に国内の史料とかにその後の捕虜の具体的な処遇に関するものがあるかもしれませんが、少なくとも『北条氏と鎌倉幕府』には、そもそも元寇の捕虜のことは書いていません。

なお、これにも本当に南宋人以外の捕虜が皆殺しにされたのか、については後年の高麗王からの国書などから疑問もあるようですが、網野善彦『蒙古襲来』など元寇に関する本でも元史の上記の記述か引用されることが多かったため、この点については捕虜の生存説を知らずそちらを引用したのかもしれません。

 

・「9(捕)実は元寇の後に来た高麗と元の和平の使者を話を聞かず6回ほど博多で殺してる」

【十二年二月、遣禮部侍郎杜世忠、兵部侍郎何文著、計議官撒都魯丁往。使復致書、亦不報。】(元史、巻二〇八、至元十二年)

【今年 建治元 四月十五日、大元使着長門国室津浦、八月、件牒使五人被召下関東、九月七日、於滝口刎首、一、中須大夫礼部侍郎杜世忠、年卅四、大元人、作詩云、出門妻子贈寒衣、問我西行幾日帰、来時儻佩黄金印、莫見蘇秦不下機、】(鎌倉年代記裏書、建治元年)

【今年 弘安二 六月廿五日、大元将軍夏貴、范文虎、使周福、欒忠相具渡宋僧本暁房霊杲、通事陳光等着岸、牒状之旨如前々、於博多斬首、】(鎌倉年代記裏書、弘安二年)

【今年 正応五 正朔蝕正現、七月、附商舶帰朝、大元燕公南献牒状、十月、高麗使全(金)有成等到着、翌年被召下関東訖】(鎌倉年代記裏書、正応五年)

【後日本僧鉗公來言、有成丁未七月五日病卒】(高麗史、巻一百六)

【三年、遣僧寧一山者、加妙慈弘濟大師、附商舶往使日本、而日本人竟不至】(元史、巻二〇八、大徳三年)

【十月八日、宋朝僧正子曇一寧参着鎌倉、一寧持大元国書、】(鎌倉年代記裏書、正安元年)

【今年 正安二 三月八日、院御所常盤井殿焼失、十一月廿九日、建長寺供養、導師当寺長老寧一山、十二月五日、興福寺供養、】(鎌倉年代記裏書、正安二年)

 

元寇の後」というのが文永の役後からか弘安の役後からかわかりませんが、文永の役後だとすると前回書いたように1275年(建治元年)の7回目の使者の杜世忠と1279年(弘安2年、至元16年)の8回目の使者の周福の2回が殺されてはいます。
しかし杜世忠はそれまでの使者と違い長門山口県)から上陸して鎌倉へ送られて殺されたので、「博多で殺してる使者」に限れば周福の1回になりますし、使者が殺されたことが遅れて伝わる前から、元では再度日本遠征の動きがあるので、この2回が和平の使者だったのかも疑わしく和平の使者と言えるかは疑問があります。

またこの2回以降の使者は日本に来ていないものが多く、来日したのは1292年(正応5年、至元29年)の12回目の使者の金有成と、1299年(正安元年、大徳3年)の13回目の一山一寧だけなので、元寇の後に6回もの使者は来ていません。
その金有成と一山一寧の2回も帰国はできませんでしたが殺されはせず、金有成は1307年に病気で亡くなり、一山一寧は建長寺などの住職に迎えられいます。

文永の役後に博多で殺された使者」に該当するのは文永の役から数えても周福の1回のみ、「文永の役後に殺された使者」としても杜世忠と周福の2回になり、残り4回または5回の使者は誰なのか……。

これも日本で殺されたかどうか以前に、そもそも該当する人物が存在したり来日したことがあるのかも謎です。

そして上にも書いたように『北条氏と鎌倉幕府』には使者については潘阜、杜世忠、周福のことしか書かれていません。


・「2(三)壱岐対馬は見殺しにしたのは敵情を研究したのではなく単に対馬守護少弐氏への嫌がらせ」
・「4(指)博多を略奪したのではなく物資と人員と銅銭を徴発してただけ(太宰府天満宮に「徴発やめてよー」という願文と請願が残ってる)」

この二つについては、そういう説や願文があるとは見たことないのですが、私が知らないだけかもしれませんしよくわかりません。
ただし2の方は、たとえそういう説があったとしても、推測になりそうですね。

網野善彦氏の『日本社会の歴史』に、幕府が弘安の役に備えて九州・山陰諸国の年貢や、富裕な有徳人の所持する米穀を兵粮米として差し押さえたり、諸国の神社を警固する神官・神人たちも異国との戦闘に加わることを王朝に正式に認めさせたとあるので、九州での物資や人員の徴発はあったようですが、太宰府天満宮の願文の具体的な出典もスレにはありませんし、少なくとも、どちらも『北条氏と鎌倉幕府』には載っていません。

 

・ソースの本から抜粋もやはり本にはない

 

85 :風吹けば名無し:2018/09/21(金) 19:19:27.33 ID:3HbREZZQ0.net
>>67
細川重男の北条氏と鎌倉幕府より抜粋やで

曰く「使者を殺してるけど三回目からは普通に休戦と貿易の使者。これを書状も見ずに普通に殺すのはさすがに無茶苦茶」


またスレ主はスレの中で『北条氏と鎌倉幕府』からの文章抜粋までしているのですが、やはりこんなことは『北条氏と鎌倉幕府』には全く書かれていません。

この本では使者についての記述は、第四章の『辺境の独裁者───四人目の源氏将軍が意味するもの』に、潘阜の来日と帰国についての記述と、杜世忠、周福の来日と処刑についての記述があるだけです。
杜世忠、周福の処刑については北条時宗を批判してはいますが、そこにも「普通に休戦と貿易の使者」とか「書状も見ずに殺した」なんて書かれてはいません。

本からの抜粋とまで書かれてた文章がまるごと全部が存在しないとなると、これはもう勘違いというより、わざとデマを混ぜた打線を作り、信憑性を高めるためにこの本の名前を使ったのかと作為を疑うほどです。


結局、スレ主がソースとして再三提示した『北条氏と鎌倉幕府』にもあるものは、せいぜい1の前半の「モンゴル襲来の6年前に大陸にヤベーのがいるのを察知してた」くらいでした。

また1は前半の「モンゴル襲来の6年前に大陸にヤベーのがいるのを察知」に近いものはあり、5は文永の役前と役後の時期は違うとはいえ非御家人の動員についての記述はあるものの、3の人質、6と9とまた抜粋の潘阜、杜世忠、周福以外の使者、7の江南軍襲来察知と海賊の襲撃、8の鷹島掃討戦の捕虜の処遇、2の対馬壱岐見殺しと4の人員と銅銭を徴発については、そもそも『北条氏と鎌倉幕府』にはそうしたものに関する記述そのものがありません。
それなのに、何故この本の名前がソースとして使われたのか…。

 

・存在するものに虚偽を混ぜ、実在する本の名前まで持ち出し意図的に捏造?

通してみていっても、これらの打線が出典と思われる話はやはり相当怪しいです。
具体的にソースとして実在する本を繰り返し挙げ、文章の抜粋までしていながらその文章が本に全く見当たらず、「存在するものに虚偽を混ぜている」ものがいくつもあります。

元寇や鎌倉武士についての誤解には、使者殺害の時期のように「文永の役前」と「文永の役後」や「弘安の役前」の混同など、単なる勘違いからも生じるものもあるのですが、この打線に関してはもうここまでくると、意図的にデマを作り出して信じやすくしてネット上で拡散しようとしたのかもしれません。
とはいえ、流して誰かの得になるようなものでもないでしょうし、もともと『打線』自体が一種のお遊びなので、刺激的なネタを捏造して流行らせる遊びや釣りのようなものだったのかもしれませんが。

 

「打線にマジレスとか草」「こんなのただのお遊びだろwww」と笑われるかもしれませんが、デマや誤解が生まれた経緯やスレ主の意図がどうあれ、なんでも実況板やVIPの歴史スレッドはまとめサイトにまとめられることが多く、他のスレッドやサイトで引用されるなどを経て、他の板や5chの外にも広がっています。
打線がどういうものか知らない人の目にも読まれたり、また打線そのままではない引用によって打線や5chの書き込みが元だとすらわからない状態で読まれることもあります。
現状の鎌倉武士=人質射殺などの打線発祥と思われるイメージがネット上ではかなり広がってしまってしまっているのをみても、「打線なんてどうせ遊びなんだし信じる人はいない」「なんJの外にまで影響はない」とも言えない状況になっているようです。

近年の元寇や鎌倉武士の情報にはそういう所があり、それは今も新しい誤解やデマが生じるなどして続いてるようなので、そうした誤解やデマを避けて調べたい人は、信憑性には気を付けた方が良いでしょう。